霞みのむこうに住みたい

毎日のこと、思うこと、つらつら。高卒以上大卒未満で東大大学院に通ってるダミエルです。

バスの定点観測 その一

こんばんは、ダミアンです。今日は最近の定点観測の記録を。
 
近頃、公共の乗り物の中で高齢者に席を譲らない若者が増えている、という報道がされている。
それは確かだと思う。
わたしはどうなのかと言うと、体調さえよければ譲る、といった調子である。
しかしいかんせん、高齢者が多く若者の少ない時代だ。
譲るべき相手(高齢者)が多すぎる、と思うのが正直な所。
物語において王子さまは一人であるのに対して、助けられたい女の子が大勢いるのと同じ状況である。
 
ある昼に、バスに乗った。件の、よく揺れるバスである。
始発で乗ったがすでに車内は人で溢れていて、席は埋まっていた。
昼だからだろうか、乗客には高齢者が多かった。車内で立っている人の内、少なくとも4割は高齢者だったように思う。
バスは発車して、いつも通りのルートを辿りさまざまな場所に停車していく。
途中、高校生が大勢乗ってきた。
四月だからだろうか、早く学校が終わったらしい。車内は高齢者と若者でひしめき合った。
座っている人を見ると、比較的若い(と言ってもざっとみて20〜50代)人々ばかりである。
 
高齢者に席を譲らない若者が増加中、という報道を投影したかのような車内だった。
ダミアンはどちら派かと言われれば、括弧付きの譲る方である。
括弧の中は、「面倒なことが起きてほしくないから」。
 
面倒な事とは。
例えば、バスの車内で高齢者が座れずにいて、走行中に彼(彼女)が転倒したとしよう。
誰の責任だろうか?バスの運転手?会社の社長?高齢者の目の前で平然と座っていた若い男の子?それとも、それを全部見ていた僕?
お金は誰に請求されるのだろうか?高齢者だから、もしかしたらお金も時間もかかるだろうか?
医者はそれで儲かるだろう。でも、そんなお金、転ぶ人にとっても転ばせてしまった人にとっても、無い方が絶対にいい出費だ。間違いない。
いずれにしたって、もしその転倒の瞬間を見てしまったら、離れていてもその場に居合わせたら。
後にも先にもいい気分なんてこれっぽちもない。だから譲るのだ。
 
非常に欺瞞に満ちた偽善的行為。それこそ、僕にとっての「高齢者に席を譲る」。
 
これと似た、いやな論理がある。
国際貢献系の本を読んでいて、時々、
「戦争をするべきではない理由」という見出しがある。
そこにしばしば書かれているのが、
「戦争は大きな出費であるため、国家としてはその資金をインフラや教育に回した方がいいリターンがある」
というもの。
 
馬鹿みたいな理由である。
そんな理由で戦争がやめられたら、世界大戦なんて二度も起こっていないだろう。
戦争は、戦争することで儲かる人がいるから起こるのである。
言い換えれば、
殺人は、殺人して利益を持つ人がいる限りなくならない。
 
戦争が終わらないのは、
それによる武器などの流通や人の移動による利益が大きく、それで食っている人がいるためだ。
それで戦争はしない方がコストパフォーマンスは抑えられると言うのは見当違いだろう。
 
なにより、コストパフォーマンスを理由に戦争を否定するのは、欺瞞のように感じる。
戦争を否定するべきなのは、本来流す必要のない血が、
流すことはない涙が、
流れるからだ。
命を終わらせる必要のなかった子どもが死ぬからだ。
優しさも愛もない雰囲気が充満するからだ。
それを金で理由づけするのは、あまりにも悲しい。
 
そんなことを
考えながら今日も僕は自分を責めつつ高齢者に席を譲る。
いつか、本気で席を譲れる日が来るように。
 
 

20歳になった瞬間を思い出す時に僕が語ること

こんにちは、はじめまして、ダミエルです。

今日は「〜〜〜の日」のちょっぴり残念で、ちょっぴりうれしい、という話。

 

リッキー・リー・ジョーンズという歌手を知っているだろうか。

アメリカのシンガーソングライターで70~80年代を中心に活躍し、

今でも活動は続けている。

キャロル・キングシェリル・クロウは彼女の歌からの影響も大きい、とされている。

ジャズともブルースともつかないような曲調で歌詞も歌声もとても独特、

けだるく子どものような声が魅力的である。

 

歌を聴いた限りは可愛い声で、普通の、少し幼い女性を想像するが、

彼女のこれまでの人生は波瀾万丈だったようだ。

家出、飲酒、ドラッグ。これが彼女の10代だった。

定住せず土地から土地を放浪して、

19歳になってクラブで歌うようになり、

しばらくして事務所がスカウト、

あっという間にグラミー賞最優秀賞を獲ってしまった。

そんな女性。

 

20代まであと数えるほどの日数しかなかった時に、私は考えた。

3月生まれの私は周りが20歳になっていくのを見ていて不思議だった。

彼らは19歳の私と何ら変わりないからである。

幼い頃の私は、20歳になったら何かが劇的に変化すると確信していた。

20歳と言えば、大人である。10代と言ったら子どもである。

私はその劇的に変化する、「何か」、にとても期待していた。

が、実際に19歳になり、

遅い生まれ月の私は周囲が20歳を迎え祝福されるのを見ていて、

まるで賞味期限日が切れる瞬間の卵を見ている気分だった。

期限日を越す24時の瞬間、卵の殻の中では何が起こっているのだろう。

卵にとってはそこには革新的な何かがあるはずなのだ。

成人と未成年のボーダーラインは、

ただ存在するだけの、空っぽの卵の殻のように感じた。

 

20歳になったから、なるからといって若者に問いかけ、

何かを与える大人の気心が知れない。

自分たちはどうだったのだろうか、成人した瞬間に何かを掴んだだろうか。

そうだと言われても、私は嘘にしか思えない。

それでも私にとって20代とは大人になる印象が強い。

段々と大人に近づいていくのか、大人になるとはどういうことをさすのか。

 

私は自分の20代をどうしたいのだろう、と考えた時、

リッキーのようになりたいと思った。

彼女は自己分析がとてもうまい。

自分がどういう人間であるかを熟知している。

70年代後半にリッキーのような歌い方をする人は全くいなかった。

曲調はブルース寄り、使用する楽器はジャズのもの、

歌声はビブラートなしで特に歌がうまいという訳でもない。

しかし、彼女はその歌い方を変えなかった。

 

自分がしたいこともすべきことも明瞭に分かっていたのだろう。

それは人が荒れ果てていると言った彼女の10代から起因するものだろう。

彼女にとって家出やドラッグが失敗だったのか、

成功だったのかは分からない。

だが、それを確実に自分の人生の一部につなぎ止め、

自分の姿を見出し、それを肯定的に捉えて行動できる。

歌いだした19歳からしばらくは暮らしも大変なものだったはずだ。

それでも自分を貫いて20代を過ごした人である。

 

私も20代は、好きなように自分を貫けるようでありたいと思う。

 

と思っていたら、最近24歳になった。

うわー、24だよ。

今年の誕生日も空っぽの卵の殻だった。

そういう感覚が、年々強くなっている気がする。

でも、私、博士課程に進学したのです。

ね、19歳のダミエル、君はなんだかんだ、自分を貫いて生きているよ。

まあ、ここまでも、これからも、大変だけれども。

今年の誕生日も、新年度1日目も、空っぽの卵の殻みたいでした。

それでも。

そんな空っぽに見えてちょっぴり残念な気持ちになっても、ちゃんと卵の中身には、まんまるの満月みたいな、甘い黄身がずっしり居座っているのだ。